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私的精神論

2013年2月28日 (木)

あの日を乗り越えて・・・ください。

一年ちょい前になるだろうか。華流ドラマ(台湾系)で「あの日を乗り越えて」が放送されていたので気になって毎週欠かさず観ていた。

 K-POPには、これっぽっちも興味ないし、近隣アジア系の文化をプライドもなく垂れ流し続ける腑抜けな日本の放送局にはホトホト辟易しているクチではあるけれども、そんな下衆なこと事ほざきつつ、それでも見てみようと思ったのは単に、ヒロイン・ユーチン役を演じているジエン・マンシューちゃんの暗いけれども奥底から真直ぐに見通すような透き通る瞳に惹かれたからだ。

でも中国系の映画って心をうつ素晴らしい作品も多いよね。一部の人の過剰反応な人間性は理解しがたい部分もあるけど。

あらすじは――1年のうち300日は雨が降ると言われる台湾東北部が舞台で、その街の海岸沿いに暮らすフーハイは、サックスに夢中な17歳の高校生。いつものように雨の降るある日、フーハイの実家の商店に一人の不思議な少女が自転車で突っ込んできた。間もなくして、その少女は、フーハイの高校の転入生であることが分かる。転入生のユーチンは台風災害で父と祖母を亡くし、心に癒えない深い傷を負っていた――。

フーハイが少女ユーチンに心を寄せ、何とか心を開かせようとするけれども、心を閉ざしたまま頑ななユーチンに次第に苛立ちはじめる。「なぜ、いつまでも立ち直れないでいるのか」と「クラスメイトもみんな気にかけているのに」と。けれど「あなたに私の何がわかるのか?」と。

そんな風に反発しつつも、2人で風災に見舞われたユーチンの村へ行くこととなる。そこは何もかもなくなってしまったところだった。ただの広い荒れた野原。瓦礫だらけの荒野が続く。かつて人が住み、たくさんの家や学校や遊び場があった場所なのに。そんな光景に愕然とするフーハイ君。少女の心の傷の深さを思い知らされたのでした。

なぁ~んにも無くなってしまった光景と津波が襲った日本の街に、思わず重ねてしまいました。

このドラマを見て印象に残ったシーンは二つある。

ひとつは、亡くなった父と祖母に再び会いたい会いたいと願うユーチンが、自分も死んでしまいたいと思ったり、お父さんに教えられたサックスも吹けなくなっていたりするわけだけれども、ドラマのキーパーソンとなる人物に「サックスをやめてはいけない。いつか心からの演奏ができたときに二人に会えるから」と諭される。

立ち直りかけたり、投げやりになったり、前向きになったり、やはり自分の中に再び閉じこもってしまったりするユーチンが、今度こそ本気で立ち直るきっかけともなるのだけど、本気でサックスを吹かざるを得ない場面が出てくる。

ああ、こういうことだったんだぁ~って思って。

家族を亡くすと、とくに事故とか、事件とか、病気とか、もちろん天災とかテロとか、はたまた夭逝してしまった子供さんとか……残された方々の心の傷って……、周りが寄せる思いも悲しみに満ちたものだけれども、ご遺族の方には本当には寄り添えないですよね。どうしても、ズレてしまう。

後を追ってしまおうとするだろう、自分も。けれども周りからは「頑張れ、頑張れ、死ぬな」って言われてばかりでね、無理って思うと思うもん。でもやっぱり、苦しくても生きていれば、また会える、会える方法がある、という信念を持って人にも本気で伝えられたらいい、と思った。

そんな風に思わせてくれる場面。ご遺族の心の中で生きている人も、自分が後を追うことになってしまったら、2度とその人の口から生きていたころの大切な人の生きざまをこの世に伝えられなくなってしまう。その人を2度失うということになるんだね。

もうひとつは、ラストシーン。

ユーチンが、父と祖母亡き後にお世話になった叔父夫婦の家を出て、幼いころの自分を捨てた母親と暮らそうとしてみたり、フーハイとは心通いそうで、すれ違いが続きつつも、また再び傍で心をかわせることとなった大事なラストシーン、にかかる曲。それまでもドラマの大切なシーンでたびたびかかる曲ではあったのだけれど、言葉がわからなかったし曲調も違うので長らく気づかなかった。

それは台湾バージョンの「千の風になって」だったのでした。

狙った仕掛けだったのかなぁ?

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

生きているうちは憎まれっ子で、周りの人を平気で傷つけたり、嫌なことしたり、自分勝手な理屈で迷惑ばかりかけている人ってね、最終的には碌な死に方しないんだと思う。

罪を犯して、人を傷つけたり命奪っても、法の裁きはするりとすり抜けて、極刑を免れたとしても、そういう人ってね、碌な死に方しない。残念ながら。自ら自分の魂を汚した人と、運命のいたずらで命を落とすことになった人とはね、最後に行きつく世界が違うと思う。

人の運命ってなんでこうバラバラなんだろうね。今、まさに苦しんでいる人がいたら、どうか逃げないでください。どうか騙し騙しでも体を動かし続けていれば、その苦しみの先に何かが見えるはず。何年かかっても。

逃げてしまうとね、やっぱり魂の行き先が変わっちゃうよ。たぶんね。

2012年10月27日 (土)

私にも翼、はえてくる?

先週、お仕事の関係で研修に行かされた。

「行かされた」と言い放ってしまうのは、「なぜ私が?」的な反抗心が拭えないからだ。ちゃんと言いつけを聞いて時間前に集合時間に行くし、愛想よく振舞うし、行ったら行ったでちゃんと話は聞いているのだけれど。表面上はね。

「染まるもんか、染まるもんか、染まるもんか」と、どうも“輪から抜け出そう感”も同時に膨らんでくる。

ま、大概の人はそうでしょ? 心の火はどこか違うとこ見据えて燃えてますよね?

Img_9000研修の地にて、Red bull car を発見。綺麗なおねぃさんにお願いして私も1本、サンプルを貰って、ガーっと注入しました。

これを飲んだら、私にも翼は生えてきますか?

って、そんな事より気道が熱いよ、気道がっ!!(確かにこの手のものは、ちびっこが誤って飲んでしまったら大変なことになりそう)

研修の中で所謂、賢人がおっしゃった言葉で、唯一心にとめた事がある。

社員は大概、上の人たちに言われたことを嫌々、やっているものですよね。実際、私も顔にはおくびにも出さないけど、今日すでに嫌々来てるし。でも「嫌だから、やらない」事と「嫌だけど、とりあえずやる」事ではその後の結果が違うのだ、と。

嫌だからってやらなかったら、その件に関してはなぁ~んにも形にならないでしょ。でも嫌々ながらも実行していると、なんかしらの形が結果として出てくる。形は変でも。でもその変さに今度は愛着やら責任を感じるかもしれないし、そうすればその形が納得いかなくて整えようとするかもしれないし。結果、上の人たちの思うつぼなのかもしれないけど。

ああ、なるほどな~「嫌々」と思ってもいいんだな、と思った秋の日でした。

Img_9016研修後はお決まりの懇談会と言う名の飲み会へ――。

私、「呑みにケーション」という言葉、嫌いでね。ただ呑みたいヤツだけの体良くした、いい名に過ぎないじゃん? いまや死語だろ、こんなの、と思っている。

「僕は君たちと呑みたいのだー!!」ってハッキリ言ってくれた方が納得できるんですけどね。それについて行きたくなきゃ、行かない、で、いいと思うのですけど。

物理的に無理な方は別として――。

何しろ、何がメンドクサイって酔っ払いは無駄に話が長い。ケツが重い。タバコ臭い。私は呑めないので、ほぼシラフで聞いていることが多いのだが、ま、ほとんど聞いちゃいないが、無駄にダラッダラ語って時間使うより、さっさと実行したら? と思ってしまう。

美しい姿じゃないんだよね。

ただ同時に、人がアルコールに取り込まれて、落ちて行く瞬間を見ているのは、非常におもしろくもある。抑圧から解放されて、べらべらしゃべる。心に秘めている言葉を口にする。

男の人っておもしろい。だんだん甘えっ子になって行く。うっとおしくもあるが、観察してると実に面白い。同性同士の時と、異性が交じっている時と、モチベーションやら心のベクトルみたいなものが異なるでしょう。その場の「華」みたいなもの。失礼な言い方になるが、男性陣の中に、おばちゃん一人がいるだけでも場の雰囲気が違いますもんね。

私、人生の中で「場の雰囲気を和ませる役」ということに、かなりなこだわりがありまして。子供の時は無意識でしたが。「笑顔」を強要されるのは嫌なくせにね。癒し系キャラみたいの、「その役、私やるー!!」って、たぶん立候補してしまうであろうほど、こだわりが強い。

ただのドSか? ドM苛めが好きなだけか?

その性分のせいか私は、どうも男女にかかわらず、マニアックなファンを増やしてしまいがちだ。それは私が自分のありかたについてキャラクターを多々創作してしまう所にあるのだろうが、人々はその人格に、自分の好きなようにキャラをイメージして投影させる。でも自分から生まれているものは全部自分だと思っているので、騙しているつもりはサラっさらないのだけど。

それは現実において不倫に走るとか、男の人全員に色目使うとか、兄弟を増やすとか、騙して貢がせるとか、そういうこと(笑)ではないんですね。そういう理性は、どこかしっかり働いているので、分かってくれる女友達は、きっと分かっていてくれることだろう。自分もまわりも、精神的に大人になったから余計に、と言えるのだろうが。

「自分のことは語らず、不思議な人」と思われている。それは、「特に語る事がない」から語らないのに過ぎないのだが――得な性分だよな。けど、それはすでに私の心の中では冷静に折り合いついてるの。人生を踏み外さないように、浮かれ過ぎないように。ただ、人に楽しんでもらえれば、それでいい。

ふと思った。自分、イメクラに勤めたら№1になれる素養があるんじゃないか? と。そして今日も私は分裂させる。キャラを。人の精神構造とその行方、私の永遠のテーマかもしれん。

ストーカーだけは作りださないように、気をつけよう……。

2011年6月 5日 (日)

震災から3か月。今後の支援方法について教えて!

まもなく3ヶ月を経ようとしています。政治のごたごたもあり、どうなっちゃうんでしょうね、日本。茶番劇やってる暇があるなら、そんなのやめて欲しいんですが。

しかも、同じ党内で物を申す方も「お前が言うなよ」というような方ばかりなので、まったくもって困ったものです。半分くらいに人数が減ってくれればいいのに。それか55歳くらいで定年にしてくれたらいいのに。退職金なしで。

自分のことしか考えていない代表が政治家ですよね。

な~んてほざいたところで始まらないかな。こんなの無視してお互いやれる支援をさっさかやりましょ。

物資の援助というのもありでしょうけど、個人単位では取り扱いが難しいですよね。「一方的に古着を送られても…」という現場の声もあるようですし。個人的にお知り合いに譲って欲しいもののリクエストを聞いて譲るのならいいでしょうけど、形も種類もバラバラなものを単品で送られてきても、困っちゃうってことでしょうね。

現場の方々にしてみたら、「雇用とお金が欲しい」っていうのが切実な声だそうですよ。

でも人間として、それが本音だろうと思います。だって生きていかなきゃいけないのだものね。先が見えない不安、それが一番怖いですよね。

遠くから「頑張って」と言葉だけを唱えられても……十分、頑張っていらっしゃるだろうしね。ぎりぎりのところで何とか堪えてるのでしょうし。

いや、説教をぶっこくつもりじゃあ~ないんです。目先の事に囚われず、今はちゃんと現実を向き合わなければいけない時期なのだろうな、と。

忘れられるのが怖いんですって。手を差し伸べたいときだけに差し伸べて、後は終わり、みたいな。そういうのじゃなく。それは何も災害に遭われた人たちに対してだけじゃないんだけどね。

リレーできたらいいのにね。誰かが倒れても、他の誰かがカバーに入れるような。使命感に近い根性が必要だけれども、補えることができたら・・・。

その為には利己主義、自分本位の物欲主義とか、面倒くさいから勉強しない・嫌いっていう、結局言い訳してるだけ志向はいい加減やめません~? と思う。かっこ悪。自分にも言えることなのですけどね。

生きていれば何かあるでしょう。自分以外の人の為に出来ること。

限りあるエネルギーの無駄遣いは困るわけだけれども、自粛で花火大会が軒並み中止って…そんなに不謹慎ですかね、花火。それとも経済的な理由なの?

そんな中でこんな支援を見つけた。東北に光を。

LIGHT UP NIPPON

花火なら空にいる人達にも見られるだろう、と信じているのです、私は。安らかな心で。だからみんなで楽しめるだろうと。

精神論ばかりではどうしようもないじゃんとか言いつつ、一瞬でも笑ったり、泣いたり、蓋をしていた感情を開くことができる活動があるとしたら、賛同したいと思いました。

一瞬でも感情が開いて、少しずつ積み重なったら前向きになってもらえるかもしれないから。心に火が灯れば、他の人にも連鎖することもあると思うから。現実に向き合える勇気とか闘志を思い起こしてもらえるかもしれない。

支援なさった方の自分が描いた絵がサイト上に打ちあがります。バーチャル花火大会、自分の描いたものを見たとき、少し笑った。

どうかみんなの希望の光となりますように。

ブログネタ: 震災から3か月。今後の支援方法について教えて!参加数

2011年4月 8日 (金)

不幸中の幸いか??

昨晩、薄暗い中でテレビをぼんやり見ていて久しぶりに聞いた地震速報の警告音。

あの音、正直、とても怖いですよね。「早く逃げなさい。さもないと――」って、わざわざそんな恐ろしい言葉に書き起こさなくても良いんだろうが、そんな焦燥にかられてしまいそうになる音だ。

<<<でも、こういう時は落ち着いて冷静に行動しましょうね。慌てて転んだりするとあぶないですし、腰を落として、落下物に気をつけて、とりあえず何とか身を守ることを第一にこうどうしましょう>>>

このところ、余震が少しずつ収まってきていて、防災グッズや懐中電灯を邪魔にならないところについ置いてしまっていた、という方も多いことだろう。

私もそうですけど、そんな風に少しずつ日常生活に戻せるところから戻そう、前を向いて頑張ろうと思っていた矢先なのにね。

なのに、あんなドでかい余震なんて。津波警報の表示を見ながら、「神様の意地悪! 人でなし!!」と思ってしまった。

ニュースにチャンネルをかえたら定点カメラで映し出される震源地近くの映像、住宅街の空の向こうで、ものすごい恐ろしい光がスパークしていた。直後にあたり一帯の電気が消えた。停電、どれだけ多くの方がまた不安な夜を過ごされたことだろう。

ラジオに切り替えて横になりながら聞いていたのだけれど、今回の余震による被害の詳細はまだ入ってこず、今朝になってようやく明らかになってきた。

「でも今回は津波が来なくて良かったよ」

「津波による被害がなくて良かったよかった」

というコメントを多く見聞きしたのだが、こういうことをぺろっと言える人って、どれだけ感覚がボケてるのだろうと思う。

そりゃあ、今回の震災で津波の恐ろしさは思い知らされましたけどね。誰もが。海沿いに居合わせたら「とりあえず高台に!」ってすりこまれたと思う。

でも今回、津波が起きず、それによる被害がなかったからって不幸中の幸いって……どうしてそんな風に言えるんだろうね。

今回、亡くなくなられた方の中にはショック死された方もいる。それだけ追いつめられた精神状態でいるということ。被災地で苦しむ方の中には、これから生きていく望みを見つけられなくて自殺を図ろうする人すらいるのに、助かった方々を、また第一線で支援活動してくださっている方々に、そんな風に失ってしまうことが、私たちにとって最も起きて欲しくないことなのに、どうしてそんな風に言えるんだろう。

停電してしまった地域で、信号が停まって事故が起きたり、闇に乗じて犯罪をする不届きな輩も出没したりするのに、どうしてそんな風に簡単に言ってしまえるんだろう。

私なんか困っているのは電気くらいで――買い物も困っていると言えば困っているけど、別に卵や牛乳、納豆がしばらく食べられなくても死にはしないし、そのうち出てくるだろうし――大した被害に遭ってないけど、それでも足に震えが来て、心が折れてしまいそうになっているのだから、再びどんなにどんなに怖い思いをされたことだろう。

早く、余震なんか収まってください。原発も「月単位で解決を~」とか、クソボケたこと言ってないで、一刻も早く何とかしてください。

立ち直ろうろしている人たちに、もうこれ以上の心痛を味わわせないでください。はやく平穏を取り戻させて下さい。

一時の感情だけでなく、私たちが苦しんでいる人達のことを忘れることなく、長期的な支援をすることができるよう考えていかないといけないんですよね。

2011年3月29日 (火)

合言葉を「大丈夫」にしよう。

震災後、救援物資が行き渡る、行き渡らない、活動が思うようにままならない――そんな第一線の声も、まだまだ気がかりではあるけれど、時間が経つにつれ、体よりもむしろ心に疲れを感じ始めている人のほうが心配でなりません。

それまで張りつめてい心のほんの少し出来た隙間に、闇に、囚われてしまわないかと。

実際に、被災していない方々にもPTSDに似た症状というか急性的な症状が現れているそうな。地震酔い、というのもその一種のような気がします。主な原因はストレスでしょう? 余震が続くと怖いですもんね。

でも大丈夫。

あんな悲しい現場を見て、聞いて、子供だろうと、いい歳をした大人であろうと心に傷を負ったり、不安を覚えない人の方が少ないと思うの。

だから、どうかそんな自分を責めたり、動揺したりしないでくださいね。無理に我慢したり、不安に思う感情は無理に抑え込んだりしなくていいんです。もし、不安に思う心があったとしたら、人に笑われるかな~とか気にしないで口に上せてしまうのも、ひとつの手なんですって。

むしろ感情が表に出せる、出てくる方が良い傾向ではあるのだとか。ショックを口に出せずにいることの方がよっぽど深刻です。でも大丈夫。身近な人同士でお互い、気をつけあいましょう。そうすれば、またやり直せるはずです。

だから、もし目の前で感情のコントロールができなくなっている人を見かけても、批判したり、蔑んだりしないように気をつけたいとも思う。特に、こんなときだから今は、尚更に。びくびくしないで貸せる手があるなら貸したいです。

「助けてあげられなかった」とか「あの時、ああしていれば……」とか思っている方が、もし、これを読んでくださる方の中にいたら、それは違いますからね。絶対。

助かった方と亡くなった方の境目には、これという理由なんてないと思う。天罰なんかじゃ、もちろんないです。ただ、悲しい事が起こってしまったということだけ。

じゃ、亡くなった方の気持ちになって考えてみましょうか。

無念だったでしょうね。苦しかったと思います。でも、それがもし私だったら、今生きている方が、自分のためにいつまでもいつまでも泣いているなんて、やっぱり嫌だと思う。自分の分まで、生きて欲しいと切に願うと思う。

だからどうか、ご自身を責めないでください。心の中に生きている人を消してしまわないように。その分、生きて戦うんです。苦しくても、亡くなった人の分まで生きてやるぞ、と戦ってください。

それに……そんなに生き急がなくっても、いつかこの世ではない世界で、また会えると思う。人間、どうしたって不老不死じゃないもの。だからせめて、その時に恥ずかしくないように、戦ってみせましょう。大丈夫、一人じゃないです。周りを見回せば手を貸してくれる人はいるはず。

それから、もし、ただ漠然とした不安を抱えている方がいたら、そんな時はとりあえず大きく深呼吸しましょう。

私もね、正直いますと気が滅入る時もあるんです。今、街全体が節電モードで夜になると薄暗いでしょう。家の中も照明の明かりを落としているし、そういう時、やっぱりちょっと動悸がしてきてしまうというか。

たまにつけるテレビでは、悲しいニュースを報じる事の方が多いですしね。そんな時は、思い切ってテレビを消しちゃってもいいと思うんです。現実から目をそらしてはいけない? ううん。私はそんなことないと思う。時には家族や自分の心も守りましょう。

自分に必要な情報は手に入れたいとは思うけれど、デマだか真実だかわからない情報に振り回される方が疲れてしまうと思うし、私たちの心が疲弊してしまっては、本当に助けを必要としている人の心を支えてあげられないですしね。

明日が来るのが不安とか――心が囚われそうになったら、今、自分にとって幸せなこと考えたりするのがいいそうですよ。花がきれいだな、とか。空がきれいだな、とか身近にある幸せを数えてみる。

子供さんの元気な姿が嬉しいとか、好きなおやつを思いっきり食べちゃうとか、ペットと遊ぶとか。楽しいことをして杞憂に思う心の隙間をなくしてしまえって事ですね。

あと、「笑いで」とか「歌で」とか「スポーツで」とか誰かを励まそうという気持ち、色々な意見もあるだろうけれど……それも良い効果を生む時もありますよね。驕りが見えてくると嫌だけど、やはり真心って伝わるもん。

もし誰か一人の心に届いて、響いて、勇気とか笑顔とか、一瞬でもそうすることができたら明るい気持ちが他の人にも伝染するはず。悲しいことを考える心の隙間をなくしてしまえるように。難しいけどね、難しいけど、やれなくないと思う。大丈夫。

第一線でボランティアとか、支援行動を即実行できる人が一番素晴らしいとは思うけど、日本人全員が押しかけてもしょうがないですしね。粛々と日常生活を送ることも大事です。気持ちさえ、しっかり向いていれば。

計画停電の中、暗くて怖いこともあると思うんですが「月がきれい」とか「星がきれい」とか言っていた友人たちの声を聞いて私は励まされましたよ。大丈夫、人間、まだまだ捨てたもんじゃないみたい。

「だから原発は~」とかいう議論は、いまはいらない。そりゃ、被曝は怖いです。特にお子さんがいる家庭が子供の将来を思えばこそ、キリキリしてしまうのもしょうがないです。でも議論したところで時間は過去に戻せないじゃんね。

東電トップの体たらくには頭に来るけど、混乱した現場で命と体張って闘っている人もいるのに、今まで当り前のように電気の恩恵にあずかってきておきながら、こういう事態になった時に限って、それも大した被害のない地域の人間に限って「ワーワー」言う人の気がしれないよ。

今日は最後にもう一個だけ書きます。石原都知事が「天罰」といった言葉ですけど、私はね、東北の方々に天罰が下った、と言った訳じゃないと解釈しているし、実際そうだと思う。あのおじさんは、いっつも、言葉が足らないんですよね。

言いたかったのは、私利私欲に凝り固まった日本人に「目を覚ませ」という意味で起きた災害なのではないか、と言うことなのではないですか? だからって何でこんなにも多くの方々が犠牲にならなきゃならなかったのか、という無常観は拭えないけれども――。

故に言いたいのは、こんな時にオレオレ詐欺を転じた募金詐欺とか火事場泥棒みたいななのとか、おもしろがってデマを流すとか、そういう幼稚でくっだらないことしてる奴は、いい加減やめたらってことです。ま、そういう奴には結局、生きているうちにいつか本当の意味での天罰がくだると思ってるんで、改める気持ちがないなら、もういいんですけどね。

人の心の痛みを、自分の痛みのように感じられることって偽善でも恥ずかしいことでもないと思うけどな~でも心が疲れている時に「頑張れ」って言うのって、時に相手を苦しめてしまいますよね。

そういう時は「大丈夫」という言葉がいいんですって。「大丈夫」って自分にも人にも、言えるような人でいたいな~と思ってます。

2007年5月12日 (土)

無題

Img_3105   

――例えばそれは、死を迎えるような恐怖に似ている。

Img_3108いずれは誰にも必ず訪れる、考えても考えても避けられない事柄。だから複雑に考えなければいいと思うのだが、考えることをとめられない。思考をとめられない。

私は自分を止められない。

だから、夜がくるのがとても怖い。

2007年3月18日 (日)

愛新覚羅浩の生涯~を読んで

ラストエンペラーの弟、溥傑氏の夫人、浩さんの生涯を描いた本を読んだ。2日かけて昭和の近代史にどっぷり。内容はさらりと書かれてあるのだけれど、にんともかんとも濃ゆい人生でした。気力をかなり“持っていかれ”た。まさに流転の王妃なんたる流転の人生か!

二人は「日満親善」の名のもと政略結婚をさせられた訳ですが、お二人の間に深い愛情と思いやりがあったことが端で見ているものとしてはせめてもの救いと感じる。政略結婚であっても愛で結ばれていたご夫婦といえば李王垠殿下と方子様もそうですが、互いに信頼し合ってるからこそ、時に心を打ち砕かれてしまいそうな政治的策略や人種同士の諍いなど、あらゆる壁を乗り越えてこられたのだろうな~と非常に感銘を受けるものがあります。

人間、個人対個人で向き合えば人種を超えて互いを尊重し理解することが出来るとと思うのですが、そこに国家(もしくは団体)が絡むとどうして個人的な意見、感情は全て無視され、争わずにはいられなくなってしまうのでしょうね……。

さて、本の中盤では溥傑氏と浩さんの長女慧生さんの心中事件のことに触れられている。浩さんの人生を語るにおいて決して外すことのできない事件の一つではあるのですが、しばし本編から大きく脱線して数ページが費やされている。

慧生さんは、まごうかたなき清朝の血を引くお姫様であるわけですが、ちょうど日本の女性の存在・価値観が変わろうとし始めている時代を生きた方であるためか、気高く凛とした女性という印象であるとともに、現代女性にごく近い(人間臭さ、と言う意味ね)言動や振る舞いを垣間見せてくれ、ささやかな恋の悩みや葛藤ももちろん持ち合わせているのである。同性として共感(好感よりももっと近しい想い)を抱くところが多く、どうしても感情移入をしてしまうのよねぇ。

……なので、私も脱線して(?)慧生さんのことに触れてみようと思う。

慧生さんは満州に住む親元から離れ、日本に住む浩さんのご両親=ようするに祖父・祖母=のもとで幼稚園から学習院に通うことになる。後に父である溥傑氏は叔父(ラストエンペラー)とともに捕虜となってしまうし、母である浩さんと妹の嫮生さんは監禁生活を強いられ、長く満州〔中国〕をさまようこととなる。よって十数年間、戦争に突入した日本で少女は一人で生きていかねばならなかった。例え祖父・祖母が側にいたとしても無条件で守ってくれ、甘えられるはずの親が側にいてくれないこと、まして再び生きて会えるかどうかも国家レベルで危ぶまれてるという状況は、彼女に孤独(ある種の疎外感)を心に植えつける日々であっただろうと想像する。幼い頃から自立せざるを得ないのだ、と。

終戦を迎えてようやく日本で母と妹に再会できたとき、母である浩さんから見た慧生さんは機知に富み快活なお嬢さんであったようだ。逃亡生活で疲れきった母を不安にさせないようにと自分の心に巣食っている孤独はおくびにも出さず、時にユーモアを披露して母親を安堵させているんですね。捕えられた父親の為に恩赦を求めて中国首相に手紙を書くなどの行動力をも持ち合わせている。

その堅実な慧生さんが、こともあろうに学習院大学時代に大久保武道氏と知り合い、恋に落ち、心中事件を起こして若くして死すこととなる。俗にいう天城山心中というやつ――。まさか、と思うわけです。あれだけ賢く気高い慧生さんが? と。母親を置いて先立つなんて! と。

どうせ男の側に誑かされて心中を迫られ、脅されて嫌々ながらに…などと最初は思っていました。ですが、慧生さんと大久保氏がやり取りしている書簡を見、「あ、こりゃもうだめだ」と思いました。俗っぽい言い方をしちまえば二人は超ラブラブのそれ以上、なわけですよ。二人は互いの家柄が障害となり交際を反対されていたのだが、すでに精神的にはもう結婚したも同然の結びつきを見せている。書簡からは静かなる熱い蜜月の匂いが濃く薫りたってくる。

心中までのいきさつに関しては単なる弾みではなく動機となる事柄があり、解決すべく二人の間で熟考を重ねたようですが、それがかえって二人の硬質な純粋さをより強固なものにしてしまったのかもしれませんね。純粋な愛はもはや天上にしか存在しないのだと。

慧生さんの在学中のお話に遡りますが、同窓生からみた慧生さんというのは学生達の中に慎ましやかに存在していたとしても、やはり独特な気品漂う方であったらしい。だから多くの男子学生が慧生さんの言動に一喜一憂していたようだ。慧生さんが母性を発揮して学生に親切をする。それだけで相手に「僕は好意を持たれている!」と勘違いされてしまう。ああいう方はうかうか人に親切にもできないのでしょうか? 色気抜きな母性のつもりなのにそれが絶大なる効果を発揮してしまう女性(聖女)の苦労…というのはちょっと分かる気がします。

「男どもよ、冷静に周りを見てみたら彼女は誰に対しても分け隔てなく親切に接しているだろうよ、目を覚ませ!」と言って差し上げたい。彼女がもし不美人で、およそ品もない女性であったとしたら母性を見せてもフラフラっとすることはないくせに等とも。

心中は彼らの世間に対する世間への「主張」ですよね。無言で強力なる「主張」。それは幼い頃より抱えていた飢餓感のせいであったか、あなたを恋うる人々の想いのせいであったか、あなたに背負わされた血筋のせいであったのか。でも慧生さん、やはりあなたは若くして旅立つべきではなかった。それは残されたご家族の為に申し上げたい事でありますが、どんなに俗物くさくなったとしても、したたかと言われても、苦しくとも障壁を乗り越えて、この世で生き抜くお二人の愛の形を見せて欲しかったです。それはきっとご両親の愛の形に匹敵するほど、私達のお手本となり永遠の友となったくれたことでしょうから。

すでに叶わぬことなのですが。こういう方ってのは良くも悪くも結果センセーショナルにしか生きられない運命を背負っているのでしょうかね……。

以上、聖女の生涯~を読んでの感想でした…。あれ? 最初とタイトル変わってるしっ!

2007年1月 7日 (日)

鑑賞④ =17歳のカルテ=

17歳のカルテ コレクターズ・エディション DVD 17歳のカルテ コレクターズ・エディション

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原題はGirl Interruptedとな。多感な少女が精神病院で体験した心の葛藤と友情の物語。

☆*:;;;;;;:*☆☆*:;;;;;;:*☆☆*:;;;;;;:*☆☆*:;;;;;;:☆☆*:;;;;;;:*☆

精神障害の中でも境界例、境界性人格障害に一番興味をそそられる――というと語弊があるかもしれませんが、しょうがない。正直な感想なのだから。

多感な少女期特有のもの…という印象があるからか、強烈な匂いに引きつけられるようにフラフラ~と近づいていってしまう。「私もあの中にいたの! 私もあの一部だったのよ!」と取り付かれたように心が叫びだす。血が騒ぐ?

はーい。ウィノナ演じるスザンナが入院した病棟に、アンジー演じるリサが(脱走により?)保護されてくる。リサは興奮して暴れまくり、看護者の手を煩わせ、入院患者達の恐怖心を煽っている。その姿のある種のカリスマ性ったら! オン・ザ・まゆげなブロンドの美貌、手足が長くてスリムでナイス・バディ。ボス(支配者)の貫禄たっぷりなのです。

人間はなぜ強烈な個性=狂気? な人間を怖いと思いつつ崇めてしまうのでしょうね。リサの先導により、ピッキングの名人(?)などを引き連れて事務室に忍びこみ自分たちのカルテを盗み見たり、行く果ては脱走したり。でもそういう光景って“女子が結託した時の悪ノリ”なものそのもの。史上最悪の、でも史上最高の。史上最強の美でもある。

振り返ってみると、少女期には誰もが微妙にボーダーラインに引っかかる心の動きを孕んでいる気がする。いや、絶対そうだ。たぶん多くの少女が「あたし、あたし、あたし!」と手をあげる気がする。結果どっちに転ぶか転ばないか、塀の向こうに行くか行かないか、だが…。

本人は自分の心だから、まとまった説明ができなくても内面の動きがどこかで分かっているんですよね。自分からもう一人の自分への変化が見えている。一つ一つの行動にも意味があるからバラバラで気まぐれに見える行動も言動も本当は一本の糸で繋がっている。

「ambivalence!!」 スザンナのセリフですが、まさにこれなのよね。

傷つける目的で相手を平気で傷つける。それは愛しているからで、振り向いて欲しいからで、自分が傷つけられたことの報復でもある。一生逃がすもんか、と。

ただ周りに人間からしたら、見た目の個体は一体だけ(その子以外ではあるわけがない)、なのだから戸惑うよな。そりゃ。誘惑されてもけっして屈してはいけません。治療が必要となってしまった場合の先生たちの苦労が偲ばれる…。片手間にされると、必ず嗅ぎつけてしまうもの。本気で向かっていける相手、本当に心を開ける相手、全面的に受け止めてくれる人がいればいいのだけれど。それがお医者さんでなくても、何かきっかけがあれば、案外スルッと抜け出せる時があるのかもしれない。

威嚇してくる猫に「シャー!」と威嚇し返す? うん。仕返す。

こういう系のテーマがお好きな方に↓↓オススメ本 ↓↓

症例A Book 症例A

著者:多島 斗志之
販売元:角川書店
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少女に取り付いているものの本当の正体は…。精神力の弱い方にはお勧めしない。

17歳のカルテ(2000) - goo 映画
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2006年12月23日 (土)

今日の夢~怖がりの方は通りすぎてね~

=ソフィスティケートに書くつもりだけれど、過激な言葉になってたらごめんなさい=

人をあやめる夢をみた。私が直接手を下したわけではないのだけれど、ここのところ殺戮の夢ばかり見てしまうので、恐怖の吐き出しどころに困る。吐いてしまわなければ、正夢になってしまいそうな感が拭えないのだ。

それとも自分の中の毒に戸惑っているのだろうか…?

今朝の夢は連続して起こる殺人事件が、自分の身の回りの人たちを巻き込んでいく夢だった。“私” の友人である可憐な女性の、優秀なる恋人が事件の重要参考人とされている…そういう話だ。彼は事件には無関係だと否定するが、私の恋人(フィクションですよ)が彼の知られざる素顔、葬っている過去、脅迫されているらしい事を暴いていく。私と友人は彼を信じているけれど、彼の暗部について心の隅に思い当たることがないわけでもないと感じている。それが恐ろしくて、お互い言い出せずにいるのだが。

彼女と二人で無言で土手を歩いた、お互い事件の真相が見えつつあり、「彼が犯人なのでは…」と疑わずにいられなくて葛藤している。おとなしい彼女がこの現実に耐えられるのだろうかと慮りつつ…。土手は枯れた草木ばかりなのだけど、枯れた色が黄金色にも映えた。まるでこれから起こる恐ろしいことと対比するかのように神々しい光景だった。まぶたの裏が痛い。

彼女との散歩の途中、彼女の勤め先である保育園に寄る。そこで園長夫妻に呼び止められた。庭の茂みに「人が倒れているから来てくれ」と。私達が行くと、倒れているその人はもう息をしていなかった。枯れ草に埋もれていたその亡骸は、ひどい形相をしていたが彼女も私もよく知っている人だと分かった。彼女の恋人と親しい人物だったからだ。そして私達は彼らの因縁の噂についても耳にしている。

もう一連の事件は、彼と切り離しては考えらないところまできている。

私の友人は、彼が死体をここに放置したのは自分で処置をする時間がなかった為(なんか知らんが学会出席だとか、アリバイを作っておく必要があったとか、警察の尾行だとか…)、彼女に助け(協力)を求めているのだと解釈する。

彼を庇おうとする彼女を、私も園長夫妻もとめることが出来なかった。

彼が使用した道具も、彼女と彼だけしか知らないはずの場所にひっそり隠してある。それを一つづつ処理していく彼女。けれど結局、その事が私の恋人に気が付かれてしまうのだ。彼女と彼が逃避行しようと身を隠している場所を、警察に知らせようとする私の恋人(当然のことだけど、心の機微がわからんやっちゃ)

私は一日だけ待って、と恋人に哀願する。明日になれば彼女が付き添って彼がきっと自首してくれるはずだ、と。それを信じて欲しいと――。

――っつう所で目がさめた。

別になんちゃらない夢だけど、血なまぐさい匂いが漂ってきそうな鮮血を夢で見てしまうと…自分の身が汚れた気がしてしまい、目覚めが悪いったらない。

2006年12月13日 (水)

人権デー

1948年12月10日、世界人権宣言が採択された。これを記念して12月10日を最終とし一週間は人権デーと定め、国際連合はすべての加盟国にこれを記念する行事を実施するよう呼びかけている…そうな。

ゆえにポストに投函されていた市の広報誌には、「人権尊重」の題名が掲げられてあった。・こどもの人権・男女共同参画・同和問題・ホームレス支援・知的障害・外国人差別・感染症隔離政策・職業差別の項目と共に。

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Img_1883 冬の空はうら寂しくて…。

               その反面、何故だかとても心安らぐ。

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眠れない深夜にホットミルクを飲みながら目を通してみた。む~考えさせられる事が多いのだけれども、なかでも心を奪われたのは同紙に掲載されていた女子中学生による最優秀賞受賞作品だ。彼女の兄は軽度の知的障害があり養護学級に通っている…との内容のその作文には、兄が養護学級に通っている事を告げると人に不快な顔をされる事があるという。彼女自身はお兄さんに対して悲観するということは全くなくようだが、そういった世間の差別には憤りを感じる、との事だった。

最後は差別、偏見、不公平を無くすべく社会に訴えていくと何とも頼もしい言葉で結ばれているのだけれど。

確かに…だ。自分の子供時代を振り返ると、こういったことがいじめの原因に密接に係わっていたという思いが拭えない。

大人たちが話す密やかな事、偏見の目…そういうのって子供は敏感に感づくからね。自分より“劣っているらしい”ものを見つけることに関しては恐ろしく目ざとい。

今まで世間に正しく理解されずに偏見の壁に隔てられてきたこと…例えば知的・学習障害、性同一性障害とか。「その病気って移るんでしょう?」等と言った誤解とか。今でこそドラマにも取り上げられて、人々の理解や協力を得られるようになってきているかもしれないが、それはまだまだ少数派なのでしょうね。

今のいじめが陰湿だと言われるのは、「人を傷つけている」という自覚がいじめる側にないことだと思う。自己中心的と云うか、感受性が欠如してるというか、辛抱が出来ないというか。昔はこっそりといじめが行われてきていた、それがどんなにたわいのない悪さの範囲・発言だったとしても、いじめる側は「自分は悪いことをしている」という後ろめたさが心のどこかで解っていた気がする。それでも止められないのだから昔のいじめも陰湿であることに代わりはないのだけれど。

「自分にされて嫌な事は人にもするな」って昔、先生に習った気がするんですけどね…。今はそういってくれる先生が少なくなってしまったのだろうか。

自分も正しく理解できているか、壁を作ってないか、と問われたら…100%の自信はないのだけれども。どんな人にも親切にせねばと常に思ってはいるけれど、その人と相対した時に本当に自然に振舞えるかどうか、と。やはり信じがたい行動をとられると、とまどう心がどこかに一瞬生じてしまうような気がして。

――って構えてしまうことがもう不要なことなのかもしれないね。何も大げさにも感傷的にも捉える必要はなく、美談に仕立て上げる必要もない。みんな同じように人生で誇れるものものも、つまづきも、長所も短所もあるのだろうから。

それだけのこと。

人生、どんなテーマを与えられるかは人それぞれだよね。それをどう生き抜くか。

突出させてワーワー担ぎ上げる必要も祭り上げられる必要もない。「あ、そうなんだ~」と肯定できる心があればそれで。それが一番自然に思える。

人がどういう問題を抱えていようが、それをいたずらに突きまわす暇があったら自分の人生をより良いものにしなさいよ。つつきまわすのではなくそっと寄り添えばいいのだよ。と、自分にも言い聞かせつつ…。

最近、自分の人生のテーマを見失いかけていたので、ここいらで自分を戒めておかないとね。